宗教勧誘

宗教の話。

基本的に避けてるけど前の記事でちょっと触れたのでついでに。

 

宗教勧誘を断る方法を昔考えたことがあり、そのときに思いついたもののひとつ。

まだ一度も勧誘を受けたことがないけれど、受けることがあったらそのとき相手に聞いてみたいことがある。

 

「いま僕はその宗教を信仰することにすごく抵抗を持っていて、実際この勧誘が苦痛でしかたないけれど、あなたの信じている神は、今あなたがしている行為を喜んでいるのですか」

 

「はい」って言われたら「人の嫌がることを勧める邪教だ!」って思うから信仰しないし、「いいえ」って言われたら「じゃあやめて!」って思う。

つまり「はい」か「いいえ」でちゃんと答えてくれたら、断る方向に持っていけるんじゃないかという理屈。

 

できれば「いいえ」→「じゃあやめて」の流れで会話を終わりたい。

そんなに上手くいくのかと思うけど断るだけならなんとかなるかもしれない。

その後の相手との関係がどうなるかは知らない。

 

逆に「はい」って言われたとき相手を説得できる自信がない。

こっちが邪教だと思っていても相手が信仰しているならしょうがない。

邪神の使いに一般人は勝てない。

 

結局難しそうだからやっぱり勧誘されないのが一番いい。

あと絶対その場になったらそんなこと聞く勇気ない。

勧誘されないのが一番いい。

聞いてもどうせ「はい」でも「いいえ」でもない答えが返ってくる。

 

勧誘してくる人をみんな邪教徒扱いしているわけでも宗教の存在を否定しているわけでもなく、迷惑な勧誘は迷惑だっていう話をしているだけだということを念押ししておきます。

勧誘受けたこともないのに何と戦っているんだとも思う。

あらゆるものに感謝する母

僕の母は基本的に何にでも感謝します。

もっと具体的に言うと何にでも「ありがとうございました」って言います。

父が長期入院の末ついに亡くなってしまったときも、病室にあったものすべてにお礼を言っていました。

 

「今まで○○(父の名)をありがとうございました」

父が寝ていたベッド、父の部屋を照らしていたライト、父の部屋にあった窓、部屋の窓から見えていた景色。

とにかく父が関わったものすべてにお礼を言っていました。

 

母の性格のことはわかっているし、本人にとって本当に大事な時間だと思ったので、その場ではそっとしておいたんですが、そのときひとつだけ違和感を覚えたものがありました。

父の病室にあったトイレにお礼を言ってたんですよね。

他のものと同じように、「○○(父の名)をありがとうございました。お世話になりました」って。

 

父がこの病室に来たとき、悲しいですがもうほとんど寝たきりの状態だったので、父はこの部屋のトイレをまったく使っていませんでした。

なので父はこのトイレにまったくお世話になっていません。

ちなみに僕も使っていません。

母は使ってました。

つまりお世話になったのは母だけです。

自分しか使ってないものに対して父の代わりにお礼を言ってるのが、しかもそれがトイレだったのが妙におもしろくて、でも言えなくて、すごくもどかしい気持ちになりました。

 

父親が亡くなった直後だっていうのに緊張感が無さすぎるような気もしますが、そんなもんなんだろうと思います。

むしろ直後だったからこそ、そうだったのかもしれません。

今まで経験したことのない悲しい出来事に出くわしても、慣れていないから脳が全部を受け止めきれなくて、あるいは敢えて受け止めないようにしていて、意外と普段と変わらないような感覚で物事が進んでいきます。

おもしろいことがあればちゃんとおもしろいと思えるし笑えます。

でもそのあとすぐに感情が無くなったようにフラットな状態になります。

悲しさを感じないためにとにかく感情の振れ幅を無くすという、防衛本能が働いている感じがしました。

感情が無であることによって一種の無敵状態のようになるけど、マリオで例えるとスターを取ったわけじゃなくてダメージを受けた直後だから判定がゼロになっているような状態。

無敵が解けた後は弱体化しています。

 

本題からだいぶズレました。

この記事の本題は母が何にでも感謝してておもしろいということです。

母の感謝の仕方にたまに宗教性を感じることがあるけど、母は無宗教です。

あそこまで信心深そうにしていて何の宗教にも嵌まってないのが不思議になってきました。

でも確かにあんなにひたすら感謝してる宗教は知らないので、独自に作ったのかもしれません。

オリジナルの宗教を作る母、なかなかいないと思います。

 

(注: 記事を書くにあたり調子に乗って誇張した部分があります。)

はてなブログ

はてなダイアリーからはてなブログへ移行しました。

ブログタイトルは相当気に入っているのでそのままです。

 

移行作業のおかげで5年で30個しか記事を書いてなかったことに気付きました。

更新回数があまりにも少ない。

でもどちらかというと記事の数より5年経ってることにびっくりした。

ブログが5年続いてるのすごい。

もっと褒められていい気がしてきた。

褒める声が少ない。

これを続いてるって言っていいのかわからないけど。

 

ツイッターのほうは順調に発言が適当になっているので、

ブログのほうももう少し適当になって更新するようにしたいです。

普通のHUMANが全く気付かないうちに動画を投稿する

似てる似てると文字で書いても伝わりそうにないので動画を作りました。
動画にしても伝わりそうにない。

カプコンカップを見れなかった

一年間楽しみにしていたカプコンカップが終わった。
生では見ることができなかった。
動画もまだ見ていない。
結果は速報で見た。
相当おもしろそうだ。
でもいま動画を見たところで生配信で見る興奮には遠く及ばないだろう。
そう思うと動画を再生することにも気が進まない。
もうこの大会が持っていた魅力を最大限に楽しむことはできない。
かと言ってこのまま見ないわけにもいかない。
見なくて済む程度のレベルで楽しみにしていたわけではない。
ずっと楽しみにしていたからこそできる限り楽しみたい。
いまできる一番の方法で大会を楽しみたい。
それがどうすればいいのかわからない。
最初から通して見る気力は起こらない。
生配信を再現すればするほど楽しみきれていないことが悲しくなってしまう。

何でも最大値と比べるせいで損をしたという気持ちになる。
昔からの悪い癖だと最近強く感じる。
この癖のせいでやらなかったことがたくさんある。
とっておきのことがとっておかれたままでいる。
そのまま熱が冷めてしまっている。
結局いちばん楽しめない方法をとっている。
考え方を変える必要がある。
最大限に楽しめなくても、やらないよりはやったほうが楽しい。
もっと気楽に生きる必要がある。