あらゆるものに感謝する母

僕の母は基本的に何にでも感謝します。

もっと具体的に言うと何にでも「ありがとうございました」って言います。

父が長期入院の末ついに亡くなってしまったときも、病室にあったものすべてにお礼を言っていました。

 

「今まで○○(父の名)をありがとうございました」

父が寝ていたベッド、父の部屋を照らしていたライト、父の部屋にあった窓、部屋の窓から見えていた景色。

とにかく父が関わったものすべてにお礼を言っていました。

 

母の性格のことはわかっているし、本人にとって本当に大事な時間だと思ったので、その場ではそっとしておいたんですが、そのときひとつだけ違和感を覚えたものがありました。

父の病室にあったトイレにお礼を言ってたんですよね。

他のものと同じように、「○○(父の名)をありがとうございました。お世話になりました」って。

 

父がこの病室に来たとき、悲しいですがもうほとんど寝たきりの状態だったので、父はこの部屋のトイレをまったく使っていませんでした。

なので父はこのトイレにまったくお世話になっていません。

ちなみに僕も使っていません。

母は使ってました。

つまりお世話になったのは母だけです。

自分しか使ってないものに対して父の代わりにお礼を言ってるのが、しかもそれがトイレだったのが妙におもしろくて、でも言えなくて、すごくもどかしい気持ちになりました。

 

父親が亡くなった直後だっていうのに緊張感が無さすぎるような気もしますが、そんなもんなんだろうと思います。

むしろ直後だったからこそ、そうだったのかもしれません。

今まで経験したことのない悲しい出来事に出くわしても、慣れていないから脳が全部を受け止めきれなくて、あるいは敢えて受け止めないようにしていて、意外と普段と変わらないような感覚で物事が進んでいきます。

おもしろいことがあればちゃんとおもしろいと思えるし笑えます。

でもそのあとすぐに感情が無くなったようにフラットな状態になります。

悲しさを感じないためにとにかく感情の振れ幅を無くすという、防衛本能が働いている感じがしました。

感情が無であることによって一種の無敵状態のようになるけど、マリオで例えるとスターを取ったわけじゃなくてダメージを受けた直後だから判定がゼロになっているような状態。

無敵が解けた後は弱体化しています。

 

本題からだいぶズレました。

この記事の本題は母が何にでも感謝してておもしろいということです。

母の感謝の仕方にたまに宗教性を感じることがあるけど、母は無宗教です。

あそこまで信心深そうにしていて何の宗教にも嵌まってないのが不思議になってきました。

でも確かにあんなにひたすら感謝してる宗教は知らないので、独自に作ったのかもしれません。

オリジナルの宗教を作る母、なかなかいないと思います。

 

(注: 記事を書くにあたり調子に乗って誇張した部分があります。)

はてなブログ

はてなダイアリーからはてなブログへ移行しました。

ブログタイトルは相当気に入っているのでそのままです。

 

移行作業のおかげで5年で30個しか記事を書いてなかったことに気付きました。

更新回数があまりにも少ない。

でもどちらかというと記事の数より5年経ってることにびっくりした。

ブログが5年続いてるのすごい。

もっと褒められていい気がしてきた。

褒める声が少ない。

これを続いてるって言っていいのかわからないけど。

 

ツイッターのほうは順調に発言が適当になっているので、

ブログのほうももう少し適当になって更新するようにしたいです。

普通のHUMANが全く気付かないうちに動画を投稿する

似てる似てると文字で書いても伝わりそうにないので動画を作りました。
動画にしても伝わりそうにない。

カプコンカップを見れなかった

一年間楽しみにしていたカプコンカップが終わった。
生では見ることができなかった。
動画もまだ見ていない。
結果は速報で見た。
相当おもしろそうだ。
でもいま動画を見たところで生配信で見る興奮には遠く及ばないだろう。
そう思うと動画を再生することにも気が進まない。
もうこの大会が持っていた魅力を最大限に楽しむことはできない。
かと言ってこのまま見ないわけにもいかない。
見なくて済む程度のレベルで楽しみにしていたわけではない。
ずっと楽しみにしていたからこそできる限り楽しみたい。
いまできる一番の方法で大会を楽しみたい。
それがどうすればいいのかわからない。
最初から通して見る気力は起こらない。
生配信を再現すればするほど楽しみきれていないことが悲しくなってしまう。

何でも最大値と比べるせいで損をしたという気持ちになる。
昔からの悪い癖だと最近強く感じる。
この癖のせいでやらなかったことがたくさんある。
とっておきのことがとっておかれたままでいる。
そのまま熱が冷めてしまっている。
結局いちばん楽しめない方法をとっている。
考え方を変える必要がある。
最大限に楽しめなくても、やらないよりはやったほうが楽しい。
もっと気楽に生きる必要がある。

好き嫌いのセンス

音楽とか漫画の趣味について話をしているときに、
有名なのを好きだっていうとセンスが無いって言われて、
あまり人に知られてないのを言うとセンスがあるって言われるみたいな、
好き嫌いに対してセンスがあるとか無いとか言われることがよくあるけど、
作る側ならまだしも受け手の好みにセンスなんかあるのかなっていつも思ってる。

自分の好きなものを他人に勧めるときには、
数ある中から相手が好みそうなものを選ぶセンスとかは必要になってくるけど、
自分が何が好きで何が嫌いかなんてことに正解なんかあるんだろうか。

流行りの芸人が面白い、面白くないっていうのもよく話題になるけど、
それを好きだっていう人がいるんだからもうそれでいいだろってずっと思ってて、
面白くない派の人がわざわざ他人の趣味に文句をつけてるのが不思議でしょうがない。
もちろん面白いと感じてる人を攻撃するのがおかしいと思ってるだけで、「自分は面白くないって感じる」って言うだけなら何も問題ないと思う。その場の空気にもよるけど。

他人を否定するときは慎重にしないといけないと思って生きてきたから、自分の感情だけを根拠に他人を否定できる人に恐怖を感じるのかもしれない。

ちょっと話がずれた気もするけど、要は他人の趣味って口出しできるものじゃないなっていう考えに落ち着いた。